サラリーマン川柳

「神の手も道具なければただの人」最近自分自身を含め自戒を込めて詠んでいます。テレビではよく名医などといって医師が出演します。出演している医師は私から見てもすごい人ばかりで本当に名医だと思える人物はたくさんいます。それは事実です。しかしそれはその道の名医であって少し分野が変わればただの人になります。我々内科医は全ての疾患に対応できると現在でも信じておられる患者さんがかなりおられます。しかし全ての疾患に対応は不可能で、その相談を受けて適切な指示としてその専門の医療機関に紹介できる医師こそが名医であると私は思います。例えば眼の調子が悪くて内科の隣に眼科があるのに内科には流石に来ないでしょう。日産の車の調子が悪いのに流石にトヨタに持って行って修理してくださいと言わないでしょう。離島で医師が一人しかいなければ全てを診療しなければなりません。現実的には困難です。ただし相談にのってあちらに行けばいいという指南はできます。離島で従事する医師は個人的には都会のゴッドハンドよりある意味では名医として尊敬します。しかしゴッドハンドを否定しているわけではありません。どちらにも住み分けがあると言いたいのです。しかし世間ではなかなかそこが理解されていないのも事実です。ですから自戒を込めてサラリーマン川柳に投稿してみました。しかしこのようにちゃんとお題の説明や解説付きならば理解されると思うのですが、その句だけを詠まれてしまうとまたそれこそ表現の自由なのですが問題かもしれません。

医者なんて自分も含めてそうですが、病院や診療所というアプリを持っていればその中では自分の力を存分に発揮できます。しかしゴッドハンドの名医でさえも道端で倒れている人を見つけた場合は一般人と同じ行動しかとれません。なぜなら大声で「誰か来て」とか「救急車呼んで」とか自分のケータイで119番通報してあとは心マッサージするくらいしかできないのです。それでも助かる時はその倒れた人は助かりますし、駄目な時は何をしても駄目な場合も多いのです。ですから敢えて一般人と同じくらいと言ったのです。ところがそのゴッドハンドがひとたび病院の手術室で術着に着替えて最新の医療器具に囲まれると神の手を発揮します。餅屋は餅屋で仕事をして初めてその人の技能を生かせることを言いたいがための川柳を詠んだつもりですので、もう一度繰り返しますが決してバッシングではありません。「何でもできる何でも内科」は「何もでき内科」と言われるのが悔しい場面もときに遭遇します。ですから何も道具を持たずに全てをやってのけなければならない僻地医療を実践している医師は素晴らしいと思うのです。まだまだ精神的にも技術的にも未熟な私には到底真似できません。これからも自分のできる範囲で精一杯の事をしていくのが今の自分の務めだと思います。個人的には医師は飲み薬で治すのではなく「安心という薬」を処方してあげるのが一番だと信じています。しかしその安心のために余計なことを言って更に相手を傷つけてしまうこともあり反省することも多いです。それで最後に一句詠みます。「名医とは腕と心の二刀流」お粗末でした。

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AならばB、BならばC

本日のお題は何を言っているのか想像することは困難かもしれませんが、簡単な例を挙げてみます。鳥は生き物である。これがAならばBです。では生き物は鳥である。これは一部当たっていますが正解とは限りません。鳥でなくとも他にも生き物はたくさんいるからです。これを数学の世界では必要条件と十分条件と言います。小難しいことは置いといて何を言いたいかというとその中でも「AならばB」と「BならばA」というどちらもOKという条件の事を二つ合わせて必要十分条件と言います。つまりどちら側から見ても真実は一つという場合に使います。私は○○である。○○は私だ。この○○に自分の名前を入れてみてください。同姓同名という例外は別として11対応になるでしょう。そのような関係の事を言います。つまりその条件ならば自分しかいないという事実を数学的に表現したものです。次に更に発展させてみましょう。23より小さい。12より小さい。その結果13より小さい。これが本日の題目であり題目には敢えて書きませんでしたが、答は「AならばC」であるという真の答を導けます。数学の世界では解答が複数のこともありますが、ほぼ解答は一つしかないことが多いのです。ただしその正解に至る過程にはいろいろな手段があります。例えば歩いて地道に時間をかけて計算する場合やどこでもドアという公式に当てはめて一瞬で解答できる場合もあります。結果としてゴールにたどり着けばどの手段でも正解なのです。

ではこれを一般社会で考えてみましょう。「この仕事ができるのはこの世界でもそんなにいない。その中でもこの仕事だけは絶対に誰にも負けない」という自負が自分にあるとすればそれは「AならばC」であるという考え方に近いでしょう。「この仕事なら私に頼めば一番よい仕事をする自信がある」これは最初に挙げた「AならばB」と「BならばA」という必要十分条件を満たしているでしょう。つまり自分の誇れるものつまり「オンリーワン」を持つことの重要性を説いています。ときに日々の生活や仕事で「どっちにしようか」と悩むことも多々あります。例えば「今日の夜は肉にしようか?魚にしようか?」と悩みます。「昨日は肉だったから今日は魚か」と答えを出します。これが正に「AならばC」という考え方の原点なのです。小難しいことを書き並べましたが、人は物事を考えてどちらかを選択しなければならない時にはこのように数学的な発想を取り入れて論理的に進めようとします。自分自身ではそんなことを考えているつもりはないのですが、数学的体系的に沿って物事を考えるのです。人がこの世の中を生きていく上で多くの悩み事を抱えますし私も同じように悩みます。その時私はいつも数学のこの論理を最大限に駆使して考えるようにしています。悩み事や選択肢をシンプルに2個若しくは3個挙げてみてそれをABCに当てはめます。そしてそのABCの順番をいろいろと変えてみます。結果としてどの順番でもその条件が成立する場合はその論理は普遍性をもっていると判断して現時点での正解として選択します。勿論、現時点での正解であって未来永劫の正解ではありません。

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福井へ旅行~研修編~

先週は研修会の直前までのお話でしたが、今回はその続きです。百聞は一見にしかずと言いますが、実際目の前で見ると思っていた以上にまた想像力が掻き立てられます。この立派な建物を見てもし自分ならこういう風にマネジメントしていくだろうと考えます。そのような意見の交換会が本日の3時間の研修会です。研修のみですと机上の空論になりがちですが、実物を見るとまた更にアイデアが湧いてきます。とても有意義な時間を持てたと思います。研修後は皆で山中温泉の旅館に移動です。本日のメインイベントはこれから夜の懇親会です。ゆっくりと露天風呂につかり今日1日の疲れを癒します。それから地元の美味しいものや地酒を飲みながらの意見交換会が始まるのです。今回の出席者はほとんど以前からの知り合いで数名は家族の慰安を兼ねてファミリーで来られています。一人で来ている者は皆で大部屋に押し込まれて3人部屋になりましたが、その代わりに部屋に露天風呂がついて豪華版です。とはいっても懇親会は二次会まで続き個人的な仕事上の悩みや子育てのことなど内容は多岐に渡り話も尽きません。夜はどんどん更けてあっという間に時間が過ぎていきます。あとは寝るだけで豪華な部屋をとった割にはあまり部屋自体を堪能できていません。しかし翌朝目が覚めて窓越しの景色は風情があります。前日の疲れも残ったまま朝食をとり午前は旅館のイベントホールで研修会2日目です。本日も内容の濃い事例ばかりで自分では経験できない疑似体験ができます。自分だけで考えてもなかなか良いアイデアは浮かんできません。全く異なる科のDrの話を聞くと新鮮です。多くの事例は自分にはあてはまりませんが、これからの自分がどっちの方向に進んでいけばいいかなどの方位磁石になります。目から鱗が涙のように落ちてきます。集中した3時間はあっという間に過ぎて終了時刻になります。今回も新たなきっかけを見つける旅にすることができた貴重な2日間でした。

帰りの東京組は金沢まで出て北陸新幹線で東京へ帰ります。私はサンダーバードに乗って京都まで行き乗り換えて夕刻には徳山に到着しました。このような研修会と息抜きを兼ねた旅行は家族との旅行とはまた異なりとてもよいものです。今回の研修で感じたことは20年前の自分を見ているようでした。皆それぞれがいろんなステージに立っていますが、その立っている先の道は見えません。多分この先にも同じような道があるのだろうと思いながら歩いて進んでいきます。知らぬ間に水たまりに踏み込んで足を滑らせて転ぶかもしれません。その道を過去に通ったことがある者は後から来る者にそこの水たまりに注意するように促しますが、相手もなかなか言うことを聞きません。私もそうでした。皆自分の脚で歩いて躓きながら学んでいくのです。ただ先陣をきった者の言うことを素直に取り入れると良い場合も多くあります。今の自分は昔の自分よりは人の話を少しは聞き上手になったのかもしれません。しかし明日からの道は自分で探して切り開いていかなければなりません。福井への研修旅行が少しでもその足しになれば幸いです。

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福井へ旅行 ~永平寺編~

金曜の午後の診療を終えるや否や新幹線のぞみに飛び乗り京都で乗り換えて福井へと向かいます。午後630分に徳山を出発して乗り換えを含めて夜の1045分に福井駅に到着です。本当は明日の土曜日の朝一番で出発しても昼には福井駅には楽勝で到着して午後からの研修には間に合います。今回の北陸への研修の前にかの有名な永平寺を観てみたいと思い前泊して翌日の午前中に観て周るためにこのような計画になりました。到着後は疲れて寝るだけですが、少しでもリラックスできるようにと駅前の温泉大浴場のあるビジネスホテルを予約しました。翌日は文化の日で満室でしたが、前日はガラガラです。ほんのひとときですがそれでも疲れを癒してくれます。翌日は山中温泉の老舗旅館で研修会が組まれていますが、今日は一人旅でゆっくりのんびりです。北陸には2年前に学会で金沢に来ましたが、その時には二度とこの地に足を踏み入れることはないであろうと思っていましたが、予想外の展開で今回の旅行です。だったら東尋坊か永平寺という名前しか福井では思いつきませんで、それも午前の3時間で余裕をもって観て周れる所で永平寺になったのです。別にお寺巡りが趣味ではありませんが、日本史で必ず出てくる名前ですのでせっかく行くならとばいうことで拝観です。事前に調べるとお寺のことを調べるよりもそこの土地の名物料理は蕎麦であることの方が重要で門前にはどんなお店が並んでいるかの方がとても気になります。勿論お寺の事も調べました。いろいろなにわか知識を植え込み地元の越前鉄道とバスの乗り継ぎなど綿密なプランを練っていざ出発です。

朝からよく晴れて11月初旬ですが北陸の朝はかなり冷え込んでいます。朝一番に拝観するために7時発の電車とバスに乗って745分には現地到着です。まだ拝観者もちらほらでほぼ一番乗りです。なんでもそうですが、先頭で入館すると全てがスムーズに観て周れてその後お土産やお昼も早めにとることができて午後1時までには福井駅に帰って来ることができます。永平寺を拝観しましたが、事前に調べた通りでお寺は荘厳な雰囲気の中に建っていて中の装飾品も素晴らしいものばかりでした。お寺巡りに関して全く詳しくない素人が観てもとても立派なものであることは一目瞭然でした。その後門前の蕎麦屋に入って地元特産のおろし蕎麦を食べて自宅へのお土産も買っても時間は余裕で余りました。研修会の待ち合わせ場所である福井駅改札口に午後1時には楽勝で到着です。お互いに顔なじみの会員と一緒になり本日の研修会場に向かいます。本日の研修会場は会員のうちでこの春に開業された精神科の先生の診療所です。精神科と言っても鉄筋3階建てでかなりの規模です。そして仕事内容も精神疾患から児童精神学までの幅広い分野で複数のDrでされています。開業前の設計から開業後のノウハウまで一緒に研修会で意見を出し合ってその知恵の結晶として今この地に建っているのです。ですから自分の建物ではないのですが行く前からとても愛着が湧いてきます。そこで夕方までの3時間見学とこれからのストラテジーの研修会です。この続きは次回に。

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守る約束と反故にする約束

久しぶりに友人とばったり出会って「久しぶり!今度飲みに行こうよ!」というのも大きな意味では約束になりますが、本当に約束が守られるかというと社交場のリップサービスでお互いに約束とは思っていないことも多いです。また「来週までには必ず資料を提出せよ」と上司から強い口調での命令は優先順位が一番の約束となります。そして子供と週末遊びに行くと約束していたお父さんは泣く泣く子供に「約束を破ってゴメン」と謝って約束は守れなかったことになってしまいます。家庭内や職場でも約束は至る所で発生しています。家庭内や職場の中での約束は世界を眺めてみてもどこの国でも約束は守るのが当然という意識は各国共通です。

それでは国家レベルに目を移してみましょう。一般的に日本人は昔から一旦約束をすると意地でも守り抜く傾向が強いように思えます。それは武士道から来ているせいでしょうか?一方で騎士道からの流れの欧米人は約束をするけれども途中で反故にしてしまうことが多いように思っているのは私だけでしょか?例えば国連への加盟国金に関して日本は金払いがよいのですが、欧米各国は各国の負担割合は決まっているのにゴネます。TPPに関しても米国が言い出しっぺで日本を巻き込んできたのに政権が変わると掌を返したように自ら逃げていきます。ルールにのっとった脱退ですから日本として文句を言うのもおかしいのですが、何となく違和感を覚えます。温暖化対策のパリ協定からの米国脱退は流石にあの約束を守らない中国の国家首席でさえも困惑の顔を浮かべていました。一方で北朝鮮の核問題では米中の約束はなかなか中国が守ろうとしませんし、韓国の慰安婦問題は紆余曲折後に両国の政府の間で約束をして金銭まで日本から拠出したにも関わらず、韓国はその約束を反故にして「金は返せばいい」とアホなことを言っています。拉致問題は究極の日朝の約束を反故して北朝鮮は無視し続けている状況です。このように個人間では約束を守らないと相手の信用がなくなり社会で生きていけなくなりますが、国家間では約束を守らなくても経済制裁されてもどうにか細々と生き延びることが可能のようです。

最終的に「自国がよければそれでよい」という保護主義となりその先頭を走っているのが米国であり、追従して中国や韓国、北朝鮮が追っかけています。どこの国でも子供に対する教育では「嘘をつくな、約束は守れ」と親や教師が口を酸っぱくして教えているはずなのにいつの間にかいい大人になると嘘をついて約束を守らなくなります。他国の批判ばかりしましたが、日本でも最近同じような風潮が顕著になってきているように思えてなりません。なぜか?と考えるのですが、現時点で的確な答えはもっていません。しかし一つだけ言えることはいい加減に育てられた人間は絶対に嘘はつくし約束は守りません。厳しく育てられて嘘もつかないし約束を守る人間であっても環境によって変わることなんてすぐにできます。最後はどれだけ自分若しくは自国を律するかです。幸福の国ブータンの詳細は知りませんが、きっと世界一嘘をつかないで約束を守る国ではないかと思います。

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