フェリー沈没と不明マレーシア機

先週は韓国ではフェリー沈没で大騒ぎでした。日韓関係は冷え込んでいますが、他人事とは思えません。事故から1週間が過ぎ生存者救出に全力が注がれましたが、最悪の結末になってしまいました。先日の放送では数年前までは日本のフェリーとして鹿児島と沖縄を結ぶ旅客船として活躍していたとのこと。うちの三人の子供たちも海と森の学校の催しでフェリーに乗って沖縄に行ったことがあります。もし同じことが起こっていたらと思うとぞっとしてしまいます。韓国とはぎくしゃくしている今日この頃ですが、少しでも力になれることは日本として協力してほしいと思います。

フェリーはなぜ転覆したか?という再現実験をテレビで見ました。数年前に日本から韓国の旅行社に売却後に4階の船室部分が増築されて収用人数が100人ばかり増えたことで船の重心が不安定となったこと。そしてフェリーのように車やコンテナなどを搭載する空間が大きい場合、それらの荷物をしっかりと固定していないと操舵を急にきって急旋回すると遠心力で荷物が外側に移動して傾くとのことでした。模型船を使用して水産庁所管の実験棟でプール60m×25mでの実験映像を見ましたが、急旋回だけでは傾くものの転覆しませんでしたが、コンテナなどの荷崩れや移動が起こると転覆してしまいました。

連日、夜を徹しての海難救助隊員のご苦労には頭が下がる思いですが、特に事故現場は潮の流れが速くて悪天候も重なりなかなか捜索が困難を極めていました。生存者がいるかもしれないという一縷の望みを不明者の家族が託している限り希望を捨てずに最後の1人まで捜索をがんばっていただきたいと思います。自分も海に潜ったことがあり、潮流の速いところでは死にもの狂いで泳いでも体が潮に流されてしまう状況も理解しています。また海の中では想定外の危険もたくさんありますので捜索隊員の安全確保も必要なのは言うまでもありません。

今回の事故前にも突如不明となったマレーシア機の捜索でオーストラリア沖の荒れた海での捜索が1か月間続けられました。その時もインド洋の遥か南で陸地からも1000km以上も離れ荒れた海での捜索は大変だったと思います。同時に3000m以上も深海の底に沈んでいる旅客機やブラックボックスを探すのも困難を極めています。この事故は旅客者からすれば防ぎようがありません。そして家族からすればなぜそんな事故に至ったのかを究明してもらわない限り帰って来ない家族の無念さを考えるとやるせないと察します。

これからも世界中で想定外に起こる事故に対処するためにはどうすればよいのでしょうか?事故は起こるものだという前提で個人個人が自覚し、万一起こった時には少しでも冷静な行動をとる以外に方法はないと思います。想定外の出来事が起こっても可能な限り想定内で個人個人が動けるように常日頃から緊急避難訓練をしてシュミレーションしておくべきでしょう。しかしそれでも事故は起こります。個人個人が対岸の火事と思わずに謙虚に物事を受け止めて動かなければなりません。

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予備校の入学式

今月初旬に娘が予備校に入校しました。過去の自分の経験からあえて入学とは書きませんでしたが、予備校でも入学は入学です。言われてみればその通りで、日本語の使い方としては間違ってはいません。でも桜の花の下での新しい門出とはやや趣が異なります。私は仕事で行けませんでしたが、予備校側からは「来年の合格に向けて家族ともども団体戦です。入学式当日に合格に必要なご両親の心得や過ごし方、そして今春晴れて合格した先輩からの体験談を聞いていただきたいので是非出席してください」という通知が来ましたので家内が福岡まで行ってきました。保護者の出席は3割程度だったようです。

現在は少子化で大学も勿論ですが、予備校も生き残りに必死です。そして数年後に控えたセンター試験廃止?そして現在のセンター試験のように点数のみで順番をつけるのではなく、高校在学時に複数回の到達度を評価する試験への移行を目指すと文科省は発表しています。これが前回のゆとり教育の政策失敗の二の舞にならなければよいのですがやはり心配です。国会でも議員の皆さんは最初には素晴らしいことを総論では語りますが、各論になると反対が出て、官僚や関係団体の抵抗にあって骨抜きになり廃案ということがよくあります。将来ある子供たちの教育ですので、そうならないように期待しています。

また英語教育の重要性が最近やたら語られていますが、そんなことは我々が高校の頃の30年前にも当然のように語られていました。そして30年という月日だけが経過して小学校にも英語授業を取り入れようと盛んにうたっています。日本語すらまともにしゃべれない子供たちに外国語を教えるのはいかがなものかという思いはあります。一方で小さい頃からバイリンガルを目指せば国民皆英語でぺらぺらも夢ではないという妄想もムクムクと持ち上がってきます。昔ミリオンセラーを記録した青春出版社発行の森一郎の「試験に出る英単語」を暗記して受験英語にどっぷりつかって結局大人になっても英語が話せないし聞けない世代の我々にとってはとても耳が痛いと同時に悩ませる問題でもあります。海外に留学するためにはTOEICなどができないとダメでグローバル化と言われながらもなかなか飛び出していけない今の時代です。少子化で大学を選ばなければ全入できる世代で、東大を卒業して先行きが不安定な社会に就職しても昔とちがって一生会社に尽くすという忠誠心もなくなった時代です。いろいろと社会構造が変わって大変な時代ですが、それでも子供たちには将来の日本のために頑張ってほしい気持ちでいっぱいです。

この春に娘が予備校というまだまだ人生の航海にしては程遠い状況ですが、それでも義務教育という枠から卒業し親と一緒の生活から離れて自分の夢に向かって歩み出したことに一人の親としてエールを送りたいと思います。来年の春には本当に桜の下で入学式を迎えることができれば言うことはありません。しかし最近は大学でも入学式に両親同伴、下手したら祖父母同伴の時代です。実は子供が親離れできないのではなく、子離れできない親が多くなったのも事実ですよね。

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人生はジグソーパズルのようなもの

皆さんもジグソーパズルをしたことがあると思います。ジグソ-パズルって人生の縮図に見えませんか?1ピース、1ピースどれもいろいろなデッパリがあり、あたかも一人一人の人間の性格と同じように凹凸が激しく隣のピースと合致しません。特に子供の頃は小学校の先生に「皆と仲良くしましょう」と言われて誰とでも分け隔てなく手をつないだことでしょう。中学生くらいになると少し自我が芽生えてきて友人に少し意地悪をしたりします。しかし自分たちのティーンエイジの頃はかわいいイジメだったように思います。今のように個人を自殺に追い込むことは全然なかったとは言いませんが、今ほどありませんでした。現在のイジメによる自殺報道を聞くたびに胸が詰まるような思いに駆られます。

ジグソーパズルを効率よく埋めていこうとするとまず周辺の枠の部分から埋め合わせていくとはかどりますよね。その最初の行為こそ義務教育で人間としての枠をはみ出さないように型を決めていくことなのだと思います。最低限、人間として生きていく上で守らなければいけないルールがあることを。その後は中心から攻めようが、地道に周辺から攻めようがそれは個人の人生観によるものです。最後の最後の1ピースをはめこんで完成したその時に「自分の人生はいろいろあったけどよかった」と思えればいいわけです。しかし「人生は山あり谷あり」でそうなかなかうまく事は運びません。ピースをなくすこともあるでしょう。ピースどうしが合わずに大ゲンカをすることもあるでしょう。その時、自分のピースのデッパリを少しヤスリで丸くしてみてください。そうするといろいろな人生の場面でピースがうまく隣と合致することも増えてきます。自分は人生でもう半世紀を生きたことになりますが、20歳から40歳頃までは若い分だけ勢いはありましたが、トゲだらけのピースだったような気がします。勿論トゲも必要不可欠ですが、もう少し丸くてなってもよかったのではないかと50歳の自分になって思うのです。これからの残りの3分の1強の人生はトゲをもちながらも先端が吸盤のような丸く柔軟性のある先っぽになって何でも吸収できるようにしていきたいなと思います。

生まれてから医師という免許を取得するまでに24年という年月がかかりました。医師になってから同じだけの24年が経過し、とうとう追い越してしまいました。そして半世紀が過ぎました。あと20年で70歳。健康のままでいればまだ医師をしているのでしょうか?それとも別の人生を歩んでいるのでしょうか?その頃には人生もほぼ終焉に近づいてきています。生まれたときにはギザギザのピースで山の頂上からその刺々しい原石が川を流れて転げ下っていくうちに角のとれた丸い石に変わるようなものです。海まで到達して砂になっているかもしれません。そうなっていれば本望な人生といえるのでしょう。自分の人生という壮大なジグソーパズルはどんな絵になるのか?全体像はまだまだはっきりと見えてきませんが、そろそろ完成したときの絵を想像する時期に来つつあります。個々のピースどうしをうまくつなげて人生の壮大なる絵を完成していきたいと思います。

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旅立ちの季節

毎年小学校の桜が満開になる頃、旅立ちの季節がやってきます。毎年いろいろな気持ちが交錯します。昔は4月になってから桜が開花して小学校の入学式の頃に満開でしたが、今では入学式には葉桜になっていることがほとんどです。将来、下手をしたら卒業式に桜が満開ということにもなりかねません。私が小さい頃に見た絵本でも桜の下での入学式でしたが、「今は昔」です。これも地球温暖化の影響かもしれません。

桜が満開の我が母校富田東小学校です。毎年の旅立ちを見守ってくれていますが、入学式にはやっぱり葉桜です。

桜が満開の我が母校富田東小学校です。毎年の旅立ちを見守ってくれていますが、入学式にはやっぱり葉桜です。

3月31日、この日は年度末でもありますが、私たちにとっては学校でお世話になった先生とのお別れです。まずは3月27日の朝刊の山口県教職員人事異動という欄を必死に目を皿のようにして1行1行見ていきます。昔は人事異動先の学校に先生の氏名が書かれていたため、現在の勤務先ではなく探すのに一苦労でした。そのような不満もあってかここ最近は現在の勤務先の欄に移動予定の先生の氏名が載るようなりました。数年前までは自分が小中学校時代に習った先生の氏名が定年退職欄に花を咲かせていましたが、昨年の中学校の恩師を最後にもう自分たちの時代の先生は小中学校には残っていません。なんとも寂しい思いと自分も歳をとったのだなあと実感が湧いてきます。今年の3月27日はそのような思いのこもった朝になりました。

今年の教職員の人事異動は特別な想いのお別れです。明日、娘が新たな出発で旅立っていきます。今日、娘が小学6年生でお世話になった先生の離任式が小学校であります。その先生は娘が小学6年生になった時に転任されてきて娘の担任になりました。転任早々の1年目でしたが、とてもお世話になりました。そして娘の小学校の晴れの卒業式も感極まったことがつい先日のように思い出されます。またその先生の息子さんがちょうど同じ日に地元の小学校を卒業されたと後に聞きました。担任の教師としての卒業式が優先されるのは致し方ないことですが、父親としての子供の晴れ舞台をこの目で見ることができないのは残念だったと思います。しかし教師という職業は我が子ではない子供たちと接してたくさんの教え子ができるということに関しては素晴らしい聖職だと思います。本日の離任式に次男は当然のことながら参加しましたが、長女と長男も挨拶をしてきました。親が「お世話になった先生だから出席したら」という言いつけに従った部分もありましたが、やはりお世話になった先生です、自らも「行ってくる」と出かけて行きました。毎年この季節になるとこのように気が忙しくなります。今年は尚更に心ここにあらずという気分です。

今年は例年より早く咲いたボタン。本当なら桜が終わってから咲くのですが…

今年は例年より早く咲いたボタン。本当なら桜が終わってから咲くのですが…

4月1日の朝も普段通りやってきました。娘に「いってらっしゃい。がんばるんだぞ」とありきたりの声しかかけてやれませんでした。朝日に輝く桜の花がまぶしいのか?目の前がぼやけてしまってまっすぐに娘の姿を見ることができませんでした。人並みの父親だったのでしょう。またお世話になった先生の息子さんも同じように旅立ちがあったのかもしれません。今度は子供の親と担任という立場を離れて、お互い旅立つ子供の父親として杯を交わせることができたらいいなと思っています。

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~負けないで~は魔法の言葉

ZARDの1993年の名曲「負けないで」が、今年4月から高校英語の教科書に採用されることになったことが、同曲の作詞を手がけ、2007年5月に他界したボーカル・坂井泉水さん(享年40)の誕生日にあたる2月6日に発表されました。全国約400の高校で採用されることが決まったそうです。教科書の中では「An Encouraging Song(元気がでる歌)」として、「負けないで」を紹介されているようですがなかなか直訳は難しいですね。どうしても意訳になってしまいます。そしてこの曲は日本での大きな震災のときに人々に元気をくれた曲でもありました。それと何よりも坂井さんが言葉にこだわり、制作に全精力を注いだことなどが何度も書き直された直筆の歌詞とともに伝えられていました。これはNHKのテレビで特集が組まれていました。発行元の三省堂は採用理由についてこうコメントされています。約20年間色あせることなく、今もって若者の間で、“人生の伴走歌”として歌い継がれてきている。その秘密について坂井泉水さんが何度も何度も繰り返し練り直して完成させた歌の歌詞にあり、「ことば」そのものが持っている大きな計り知れない『魔法の力』に気づいてもらい、この多感で悩み多い高校時代を強く乗り切っていってもらいたいとの思いを込めたということです。

上記は2月6日のオリコンの新聞記事を私なりに要約したものです。以前から「言葉」って「言霊」と言われるほど魂のこもった大切なものだと主張してきた私にとって「ふむふむ、その通り!」と言いたくて話題に取り上げました。ZARDの熱烈なファンではありませんが、あの澄みきった清涼な声にあの魂に響くような歌詞を耳にするとついつい口ずさむようになるのは誰でも当然のことでしょう。他にも心打たれる曲や文章はたくさんありますが、そのように感動させてもらえる言葉だったらいくらあってもいいでしょう。もっともっとたくさんの魔法の言葉を身に着けたいと日々思っています。ただ音楽の中での歌詞のもつ意味の重要性はどうしても曲の流れで打ち消されてしまうことってよくありませんか?つまり歌詞自体を詩として朗読するととても悲しくて切ない内容なのに曲の流れからはイケイケゴーっていう感じで歌詞の内容をしっかり把握するまではわからなかったりすることがあります。人間ってまず目や耳で外から入ってくる信号を脳で電気信号に変換します。音楽はリズムや音感と詩から構成されていますが、まずは五感の聴覚から曲調が脳に入力されてその後に言葉が文字変換されて電気信号に変わるのだと勝手に推測していますが、そのためにどうしてもこのようなギャップが生じてくるのでしょう。

この「負けないで」の魔法の言葉が後世にも語り伝えられていくことは故坂井泉水さんもとっても喜んでいるのではないかと思います。このように言葉のもつ普遍性を私は私でこの「さらさら日記」を通して皆さんに届けていきたいし、いずれ自分もこの世を去る時が来ても自分の子供たちへの贈り物として時を経ても全然色褪せないような文章を残していきたいなあと思っています。

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